ニートの断片

引きこもりニートの思考の断片。

日本の教育で創造性は生まれない

私が高校生だった時の話。体育の授業で、始業時間に遅れただか、なかなか生徒たちが私語を止めないだとか言って、教師が怒って体育館から出て行ってしまいました。

そうすると(何が起こるか簡単に予測できる人もいるでしょう)数人の優等生たちが「先生、呼びにいった方がいいんじゃない?」などと言い出して(なぜかこの手の発言をするのは決まって女子生徒ですよね)体育の教師を呼びに行くのです。どこに呼びに行ったか知りませんが。

で、しばらくしてその偏屈体育教師が帰ってくるのですが、まだ腹が立っているようでした。そして口を開くなり「お前たちは本当に俺の授業が受けたいのか?」となかば脅迫に近い問い投げかけてきました。

ほとんどの日本人は、一見「はい」と「いいえ」の二択が用意されているが、実は「はい」としか答えてはいけないことをそれこそ本能的に知っている(これがわからないようでは学校でも会社でもまず間違いなく孤立する)。

少なくない数の生徒は心の底では体育の授業など受けくないのです。もちろん私もその生徒の一人でした。しかしここで「いいえ」と答えることは許されない。「俺の授業が受けたいか?」と訊いている教師は授業を受けたいかを問うているのではなくて、「俺の授業を受けたいとい言え。」と命令しているのだ。これに逆らえば「おまえらみたいなクソガキは社会に出たら通用しない」と罵られるのがオチ。

学校では教育の名のもと生徒たちの言葉を取り上げている。教師に逆らう奴はガキで、そうでない者は大人。

では人の言うことを聞く人は社会でさぞ歓迎されるのだろうと思ったら、そうはいかない。学校を出、社会へ入ると今度は創造性を要求されるのだ。

従順で善良な、毒にも薬にもならない人が創造性を持つことは難しい。新しいものを作ことができるのは常に疑い、反抗し続けてきた人たちだから。反抗し、対立する力を奪われ続けてきた日本の若者に「最近の若者は自分で考えられない」などと批判する愚かな評論家は直視したがらないが、創造性を若者から奪っているのは他でもない、大人だ。