ニートの断片

引きこもりニートの思考の断片。

社会不適合者のブログ 断片

 このブログを書いているのは、高校を卒業してから、大学へも行かず、定職にも就かず、バイトすらしない引きこもりのニートです。(引きこもっていないニートも引きこもりだがニートではない人もいます。念のため。)

 取り扱う題材は主に『人生』『社会』『心』『哲学』『その他』です。

 こいつ働きもせず家からもほとんど出ないくせに随分重い話題を扱うじゃないか!とお怒りにならないで。社会にでないどころか、家からも出ないような外部の者にしか浮かばない発想というのが存在する(たぶんね)と私考えています。

 そういうガラクタに興味をもつ稀有な人に向けてこのブログは書かれており、批判的な読者はあまり想定しておりません。それゆえ、私と感性が大きく異なる人を説得できるだけの根拠と微に入り細を穿った説明が抜け落ちているかもしれません。

 

 ブログの紹介はこれくらいにしておきまして……。申し遅れました、皆さん初めまして、私はセトといいます。19歳。来年は成人式ですが、いかんせん、大学にも会社にもいかず家で本を読むだけのどうしようもない人なので、式典にでるのはとても恥ずかしく(いや社会的にまともな道に進んでいようともこの手の式には出たがらなかったでしょう)式当日もいつもどうり布団の上でごろごろしながら、読書でもするつもりです。そしていうまでもなく小中学校の同級生たち言葉を交わすこともなければ心配の連絡も来ないでしょう。

 さて、ここで読者の皆さんは「お前は来年も家でごろごろするなどとぬかしているが、今すぐにでも働こうとは思はないのか!19歳ならば、いまから必死の思いで探せば、働けるような場所、あるいは学べる場所がすぐにでも見つかるだろう。なぜそうしないのか?」という至極常識的な、良識的な、当然の質問を私に対して投げかけたくなることでしょう。

 お答えしておかなければいけません。端的にいって、私は人と接するのが嫌なのです。人間関係が煩わしいというのはなにもニートや引きこもり、あるいは不登校者などのいわゆる社会不適合者でなくとも味わっている当然の苦痛なのですが、社会不適合者はその苦痛に対する感度が異常に高いのです。別に、対人関係によるストレスに敏感だからと言って偉いわけではありません。

 なぜかこの手弱者には「自分は感性がきわめて純粋だから社会の不純さには耐えられない。自分に非があるのではない、社会があまりにも醜くゆがんでいるのだ。だから社会に適応しているのはどいつもこいつも下品な連中だ!」と言いたがる輩が多い印象を受けますが、仮に社会に非があることを受け入れたとしても社会不適合者が純粋なわけではない。それはだだ生きる力がないだけのこと。不純になるための純粋な覚悟がないだけのことなのです。価値観を時自分に有利な方に転倒させようとした瞬間に不適合者のある種の魅力は砕け散ります。

 

 もう少し詳しく喋りたいのですがあまりに長引いてしまったのでこの記事はこのくらいにします。初回であまり濃厚すぎるのも興ざめですしね。コメントは大歓迎なので時間の許す方はぜひとも意見していってください。

 

 ではまた、次の機会に。