ニートの断片

引きこもりニートの思考の断片。

偽善  千羽鶴は迷惑だと語る人を罵る人

 以前ネットで話題になっていて気になったので、いまさらですが取り上げます。

 4月14日の熊本地震の見舞いとして千羽鶴が送られたのですが、千羽鶴が何の役にも立たなくて迷惑だ。という被災者を非難する人が続出しました。

「善意を踏みにじるな!」「助けてもらっているくせに傲慢だ!」「腐っている、薄情だ!」

 twitterなどのSNSに書きこまれたコメントなのですが、書き写しているだけであまりの傲慢さに吐き気がする。善い行いというのはいかなる見返りを求めてはいけないという基本的なことを完全に忘れてしまっています。

 被災していない者が被災者の求めている支援物資を想像できないのはある程度仕方ないとして(それでも応援メッセージが書かれた紙クズなんて、生活する場を失った人にとってありがた迷惑だとわかりそうなものですが)、この手の『善意に満ち溢れた人』は日本に本当にたくさんいますね。まあ本当は善人ではなく、いい事(とその人は思っている)をして満足感を得たい、あわよくば感謝され気持ちよくなりたいと考える生粋の功利主義者なんでしょうけど。

 

 

 さて、前の記事では、「席を譲ってほしくなどなかった!」と怒鳴る老人を責めることは徹底的に間違っている。と書きましたが、これに疑問を持つ人が多いと思いますのでその理由について述べたいと思います。と、言っても先の千羽鶴の件と同じですが。

 親切な行いというのは絶対に見返りを求めてはいけないからです。見返りを求めてしまえば、その行いはもはや人のためでもなんでもなく、自分の利益が欲しいだけの功利主義者になる。 

 ここで功利主義者のエゴイストだと認めて自分の醜さと向き合えばいいのですが、彼らは、見返りが払われなければ「善意を無駄にされた!」と喚き散らし、仲間(善意に満ち溢れた人は日本では多数派)を呼び、見返りを支払わなかった人を社会的に責め立てます。

 

 見返りを求めず親切の行いをするというのは非常に難しく、ほとんど不可能でもあります。親切というのは極めて莫大な忍耐力を要求する。
 「迷惑だ」と言われて逆ギレするのはもちろんいけないし、
それどころかよかれと思ってやったのに殴られたとしても文句は言えない。

 なぜなら、簡単なことですが、人の感性というのは十人いれば十通りあるので、よかれとおもってやったことが迷惑になる場合があるのです。良かれと思ってやったことが人を不快にする可能性がある。(千羽鶴送るとこや、席を譲ることが他人を不快にな気分にすることがあるようにね) 

 親切でありたいと思う人はこのことを体の芯から理解しなければならない。

『あなたがほかの人々にこうしてほしいと思うことを、ほかの人びとにするな。なぜなら、彼らの趣味はあなたの趣味と同じではないかもしれないのだから』

これはバーナード・ショーの言葉ですが、蓋し名言といえましょう。